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雨の白状

emui

 この男について、おれが知っていることは多くはない。
 誰もが知っているような生い立ち、懸賞金の額、世界政府加盟国の一つを傾かせたという事実、トマトソースは食べないこと、薬指にだけはリングを着けないこと。
 知っていることなんて、その程度だ。
「…往診を頼んだ記憶はないが?」
 訳あって立ち寄った島で、・・偶然見かけたロングコートを追いかけると、林の中に隠れるようにたたずむ小さなコテージに辿り着いた。入り口に錠はかかっておらず、不用心な部屋には重く、湿った空気が澱んでいた。
 暖炉の炎だけが辛うじて、アンティークのチェアに深く腰掛けた男を照らしていた。扉をしっかりと閉じると、彼の天敵である雨の音が遠のく。
 口を開いたかと思えばフゥーと長くため息が吐かれる。呼気は白く、滞留する。
「そうか? てっきり呼ばれた気がしたんだが」
 機嫌の悪そうなクロコダイルのことを気にしない素振りをしながら、数歩進んでレンガに並べられた薪を手に取る。埃をはたきながら、比較的乾いているものを暖炉にくべると少しずつ大きくなる火に、背中に感じる威圧感がほんの少しだけ小さくなったような気がして、そこでようやく振り返った。
「ずいぶんと凶悪なシワだな」
 肘置きに傾いた身体を這い上り、眉間と額に刻まれた年輪に触れる。体温は爬虫類のように冷ややかで、脈拍は遅い。恐らく血圧も低いだろう。
「低気圧による頭痛、体重も落ちたように見えるが思い当たるところはあるか?」
 下瞼をめくると、いつにも増して血の気がない。挨拶にもならないような問診をいつもは嫌がるのに、今日は甘んじて受け入れている。


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